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5話 鎖された記憶

Author: 白蛇
last update Last Updated: 2025-10-31 16:23:47

「……時が、動き始めた……? それはどういう意味なのですか」

 瑞礼は凍える声で問い返した。胸の奥で氷と炎がひたひたと絡み合い、不安と熱が静かに軋んでいた。

 まだ床には侍女の亡骸なきがらが横たわり、闇に滲んだ黒の印がじわりと染み広がっていた。その死の傍らで、男は一片の悲嘆も見せぬまま静かに――あまりに静かに、「時間がない」と言ったのだ。

 緋宮がゆるやかに視線を返す。金の瞳に宿る紅はまるで夕暮れに溶け残った血潮のようだった。静謐せいひつのうちに燃えるそれは、焦燥と宿命の影を深く宿している。

「……封印が歪み始めている。奴らは、その綻びを縫い直し、再び俺を利用しようとするだろう」

 その声音は凍てつくほどに冷たく、それでも奥には燃え残る怒りと焦りの火がうごめいていた。瑞礼には意味が掴めなかった。ただ、その響きは湖の底に広がる牢獄の嘆きのように思えた。

「――都の者どもは、俺の力をいまだに政の具とするつもりなのだ」

 緋宮の声は淡々としていたが、その底には深い憎悪と諦念が滲んでいた。

 瑞礼はその言葉の意味を掴めぬまま、胸の奥に重い予感だけを残した。

「政……? 都の者……?」

 その問いは寝殿の湿った空気に溶け、やがて闇に飲まれて消えた。

「瑞礼……おまえは――なにも、覚えていないのだな」

 名乗った覚えなど、ない。この場に自分の名を呼ぶ者などいるはずがなかった。その一語に瑞礼の胸は強く波立ち、鼓動が喉を打った。

「……なぜ……わたしの名を……?」

 胸のうちに冷気と熱が奔る。戦慄せんりつにも似た震えと、遠い夢を思い出すような懐かしさが細胞の奥でせめぎ合う。

「……まぁ、良い」

 緋宮の唇にわずかな陰翳いんえいが射す。

「お前は、今どのような暮らしをしているのだ?」

 唐突な問いに、瑞礼はまばたきを繰り返した。だが緋宮の声は深い水底から響いてくるようで、抗うことなどできなかった。自然に唇がほどける。

「……両親は、幼いころに亡くなりました。それからは、妹の瑞白とふたりで……互いに支え合いながら……」

 語るごとに、雪に沈む村の情景が胸裏に降り積もっていく。囲炉裏の火は頼りなく、それでも寄り添って、布を縫い、湯気の立つかゆを分け合った夜々。瑞白の細い笑みだけがすべての冷えと孤独をやわらげてくれた生活。

「けれど……村人たちは、わたしたちを忌む者のように見ていました」

 声は霧のように震えた。

「いつも冷たい眼差しで。……わたしたちは、まるで、そこに在ってはならぬ影のように……」

 語るたびに胸が絞られる。けれど、なぜかこの男には語ることができた。それはまるで、この言葉が彼のもとへ届くことを、魂のどこかで長いあいだ待ち望んでいたかのようだった。

「……ある日、我が家に白羽の矢が立ちました。……妹を、緋宮様の花嫁に――と」

 その瞬間、瑞白の微笑がまばゆい残像となって閃く。悲しみを押し隠し、薄氷のように笑ったその顔がかえって瑞礼の胸を深く裂いた。

「わたしは、耐えられなかったのです。……妹を、そんなふうに差し出すなんて。

 だから――わたしが代わりに……」

 声がかすれた。それ以上の言葉は凍りついたように喉で途切れた。

 緋宮はただ黙っていた。視線を逸らさず、眉ひとつ動かさず、瑞礼のすべての言葉を胸奥へ刻み込むように。その瞳の底では氷の湖面の下に潜む紅い炎が、今にも溢れ出さんと揺れていた。

 沈黙を破ったのは、苦味を含んだ声だった。

「……すまなかったな」

 瑞礼の胸が熱を孕み、指先がかすかに震えた。

――なぜ、この言葉で涙が出そうになるのだろう。なぜこの男がびるのか。

 その理由は分からぬまま、胸の奥が熱く疼いた。問いかけようとした。

 だが、緋宮の表情がすべてを遮った。金紅の瞳は言葉よりも深い哀しみで、「もう語るな」と告げているようだった。

 瑞礼の喉は震え、息が音もなく漏れる。もう言葉は許されない。ただ、この男の瞳に縫いとめられたまま、瑞礼は動けなかった。

 緋宮は長く息を吐いた。その仕草には永い歳月と、まだ語りえぬ秘密が沈黙の衣をまとっていた。

「……いずれ、すべてが分かる」

 その囁きは波紋のように瑞礼の胸に広がり、やがて深く沈んでいった。その沈黙の奥に何かを押し隠している気配があった。

 瑞礼は、それを問い質せば、自分の魂がどこか深く閉じ込められてしまうような、そんな予感がした。

 緋宮は何も言わない。ただ唇を閉ざし、その沈黙の重さだけが、瑞礼の胸を締めつけた。

 瑞礼は静かに頷く。――まだ知らぬ、その背に宿るすべてを確かめる術もないままに。

 雪深き静寂の中でふたりの間を隔てていたのは、言葉よりも遥かに古い沈黙だった。

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